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名指しと「非」必然性——わらふぢなるおと固有名を巡る問題

※この記事はわらふぢなるおのネタに関する「ネタバレ」を多く含みます。ご本人や関係者の方に迷惑がかかると判断し得る事由が発生したときは、この記事または該当部分を削除いたします。

 

はじめに

 本稿では、わらふぢなるおのネタにしばしば見られる名前間違いのボケと、わらふぢなるおというコンビ名と各人の芸名にまつわるエピソードから見出される固有名の非必然性について、クリプキ『名指しと必然性』を下敷きにして論じる。

 

1.わらふぢなるおのネタにおける名前のミス

 

 わらふぢなるおのネタには、「名前のミスをする」というくだりがいくつか存在している。以下、その例をおおむね発表順に挙げる。

 

・『隣人』:広末涼子を意識したせいか、斉藤の苗字を「広末さん」と誤って呼ぶ。

・『コールセンター』:キーボードでビートを刻んだことで、PCに入力する斉藤力也の名前を「あkgjおあぃrあjd」(実際の文字列は不明、発音より推定で書き起こし)と打ち間違える。

・『バンジージャンプ』:斉藤力也の名前が記入されているところを見ていて、途中の「斉」「斉藤」「斉藤力」を本名と誤認する。

・『美容室』:WEB予約の記名欄に「さいもう」と打ち間違えた斉藤に対し、それを"不正"とみなした藤原が報復として「ふじやら」と名乗る。※公式Youtubeに投稿されているものと別のバージョンとして、ずっと「さいもう」と呼んでいた藤原が勘定の後に正しく「さいとう」と呼び、斉藤に「別にそれで『呼んでくれた!』とはならない」と返される展開があるものも存在する。

・『ハンコ屋』:「斉藤」のハンコを注文したのに対し、ハンコ屋が「THE伊藤(ザ・イトウ)」のハンコを作る。ハンコ屋はあくまでも「ザ・イトウ」と名乗ったと主張し、作り直しを要求した斉藤を悪質なクレーマーとみなすが、「THE伊藤」の発音は「ジ・イトウ」となるはずだと指摘され、自らの過失を認める。

 

 おおまかな傾向として、それまでは単なる一回性の会話として処理されていた名前のミスが、2020年頃を境に(『美容室』以降)複数回言及されたり、『ハンコ屋』に至ってはコント内の話の展開に関わる重要な行為となっている[1]

 ここで斉藤力也が繰り返し直面するのは、相手に名前を軽視されるという経験である。ただし、『美容院』においてはむしろ名前に異常にこだわっている藤原と、常識から鑑みて単なる間違いであり大したことではないとみなしている斉藤という、他のコントとは立場が逆になっている。しかしいずれも共通するのは、一方が相手または自分の名前を間違えると、相手がそれを指摘し、訂正するというやり取りである。

 「広末さん」「あkgjおあぃrあjd」「斉」「斉藤」「斉藤力」「さいもう」「THE伊藤」これらはいずれも斉藤力也その人を指示していることは、そのコミュニケーションの仕方から明確に読み取れる。「広末さん」と呼んでいる人間を広末涼子と間違えているということはなく、また「斉藤力也」と呼びながら、目の前にいる斉藤力也その人を広末涼子本人と誤認しているということもない。この点は、名前を間違える側も、名前を間違えられた側も理解を共有している。あくまでも間違えているのは名前の文字列や発音のみであって、その指示対象については目の前のその人であることをお互いに認識しているのである。

 

2.わらふぢなるお/ふぢわら/口笛なるお という固有名について

 

 この章では、コンビ名とそれぞれの芸名の由来と変遷を概略する。

 ふぢわらの当時のブログの記述[2]より、二人が初めてコンビとして出演したライブであると推測されるのは、2010年5月10日になかの芸能小劇場で行われた「あっぱれライブ」で、このときのコンビ名は「わらふぢなるお」である。2016年7月にサンスポに掲載されたインタビュー記事において、「コンビ名はお互いの名前から取った」のかという質問に対し、ふぢわらは「仮で決めたんです。でも、なんかいいコンビ名があれば変えたいんですけどね」と答えていることからわかるように、仮のコンビ名としてつけられたものであった。ふぢわらの先述のブログにも、2010年9月22日の「あっぱれライブ」で自分たちのコンビ名を共演者と観客に考えてもらう企画を行ったと記載があり「今月中にはコンビ名が決まる予定なので乞うご期待!」と書いていた。その後もコンビ名の変更については何度か検討されているものと思われ、2025年1月8日配信の『グレープ芸人の2025年を考えるトークスペシャル』に出演したふぢわらが、ランジャタイ国崎に新しいコンビ名を考えてほしいという要望を伝えたものの「ちょっと重いから無理」と断られたことがあると話している。

 「ふぢわら」は、本名である「藤原」の苗字をもじったものであるが、南京錠解散後(2010年2月18日、先述のふぢわらのブログにて解散を報告)にピン芸人として活動していた際は「わらふぢ」の芸名でライブに出演しており、2010年10月23日にわらふぢなるおとして出演した『シンガタ』でも、藤原の芸名は「わらふぢ」となっていた。現在の芸名となったのは2013年2月16日にふぢわら(@warafudi)のTwitter(現X)に投稿された、「私、『わらふぢ』から『ふぢわら』に改名致しました」-①という記述から確認できる(続くツイートには改名の理由として、「ぢ」で始まる言葉が日本語にはなく、しりとりで改名前の芸名を出して詰ませるという「悪用」を防ぐためとしている-②)。

 「口笛なるお」は、本人が度々出演番組(2019年9月26日放送『ネタパレ』など)で話している通り、サンドウィッチマン伊達から「汚物」と「口笛なるお」のいずれかを芸名にするよう選択を迫られ、後者を選んだという経緯で付けられたものである。芸名決定後も伊達からは様々な芸名(「どら焼き屋さん」「海鮮かき揚げ名人」など)を提案され続けているということがエピソードトークとして度々語られる(FODで2018年配信『サンドウィッチマン永野のNo.1決めてみた』「No.9 グレープカンパニーのこと知ってる王決定戦 前半」など)。提案された芸名はいずれも常識から鑑みて普通の名前ではなく、それが口笛なるおが改名を受け入れないことの決定的な理由の一つになっている。サンドウィッチマン伊達だけでなく、『チャンスの時間』(ABEMA)の企画「#113芸人改名会議!」(2020年11月4日)においても、口笛なるおの改名案がネルソンズ岸、千鳥ノブ、千鳥大悟から複数提案(「太太太太」「リキ」「半沢直樹」など)された他、同番組の「#119カミングアウト漫才!」(2020年12月26日)では口笛なるおが自らの芸名を「なるお」に改名することを検討していると打ち明けた。

 しかし2025年2月2日現在、「わらふぢなるお」というコンビ名は仮のコンビであった頃から一度も変更されたことはない。二人の芸名に関しても、「わらふぢ」が文字の並び順のみを変えて「ふぢわら」になった以外は一切変わっていない。

 

 「わらふぢなるお」というコンビ名は、誤認されることが多い。とりわけ多いのが「ぢ」を「じ」と誤認した「わらふなるお」という記載で、Twitterでのキングオブコント2018決勝当日の投稿を「わらふなるお since:2018-9-22 until:2018-9-23」で検索したところ、2025年2月2日時点で350件を超えるツイートが確認できた。同業者に間違われることもあり、同じグレープカンパニー所属であるTOKYO COOLから貰ったとするお年玉の封筒には「わらふなるお」と記されている(2025年1月3日 口笛なるお〈@naruo7013〉のポスト-③)。他にも筆者がこれまでに確認した誤表記として、「わらふぢなる」「わらふなる」「わらちなるお」「わぶちなるお」がある。二人の漫才用衣装に刺繍されているコンビ名も、なるおが「わらふなるお」-④、ふぢわらが「わらぢなるお」-⑤となっていた。

 このような名前をめぐる問題の発生源はコンビ名に限らない。先述の通り口笛なるおは改名、それも普通の芸名と思われない名前へ変更するよう度々提案されている。そしてふぢわらについては、自ら別人の名前を名乗るという振る舞いをすることがある。2024年6月25日、ふぢわらケイダッシュのライブ名がわらふぢなるおの定期ライブ名に似ていたことを受けて自身のXで「俺らもコンビ名ヤーレンズに変えます」と宣言-⑥し、アカウント名を一文字ずつ改名、9月半ば頃に「🦕ならはら🦖(ヤーレンズ)」とした。その後、ふぢわら本人曰く「事務所へのクレーム」-⑦を理由として「🦕出井🦖(ヤーレンズ)」→「🦕ふぢわら🦖(サンドウィッチマン)」と変遷を経て、現在は「🦕ふぢわら🦖」となっている[3]。また、ふぢわらは番組へ初出演した際など、「普段はバンクシーという名前で活動しております」という自己紹介をすることがある(2022年10月23日放送『マルコポロリ!』など)。バンクシーとは素性不明のアーティストであり、ふぢわらが本人でないとする可能性を完全に否定することは困難ではあるが、素性を隠しているバンクシーが敢えて名乗るとは考えにくいことなどからこれは虚言であるという判断すべきものであり、他の出演者も虚言であることを前提に対応するのが通常である。

 

3.クリプキの固有名論

 

 わらふぢなるおというコンビ名とそれぞれの芸名、そしてわらふぢなるおのネタに見られる固有名に関する誤りの問題について検討する上で、アメリカの哲学者であるソール・クリプキの『名指しと必然性』における、固有名に関する理論を参照する。

 この理論の大きな論点は、固有名と確定記述が同義ではないということである。例えば、「夏目漱石は小説家である」という文章の中で、「夏目漱石」が固有名、「小説家である」は確定記述にあたる。ラッセルに始まったそれまでの記述理論では、この固有名と確定記述は同義とされていたが、クリプキは可能世界という概念を用いてこれに反論する。夏目漱石がラーメン屋であった世界、夏目漱石が探偵であった世界、夏目漱石が占い師であった世界が、可能世界においては論理的に存在するといえるのである。夏目漱石が小説家であったのは偶然に過ぎず、したがって固有名「夏目漱石」と「小説家である」という確定記述はイコールで結ぶことができない。固有名は、夏目漱石その人を名指すこと以上の機能は持たない。

 また、一つの固有名に対する確定記述が可能世界であらゆる形をとり得るのに対し、固有名は常に同じ対象を指示する。「夏目漱石」が小説家ではないことはあり得るが、「夏目漱石」が夏目漱石その人ではない別の対象を指示することは不可能である(この固有名のような、あらゆる可能世界において常に同じ対象を指示するものをクリプキは「固定指示子」と定義する)。

 ある特定の対象に対し、新しく固有名が授けられることをクリプキは「命名儀式」と呼ぶ。この固有名は、共同体の中で因果連鎖的に受け継がれていく必要があり、固有名を伝達された人は、その固有名によって伝達した人と同じ対象を指示することを意図する必要がある。

 この「命名儀式」について大澤真幸(1988)は次のような議論を展開する。「命名儀式」においては、例えば「『吾輩は猫である』を書いた小説家は夏目漱石」であるといった方法は不可能である。なぜなら可能世界において、夏目漱石が『吾輩は猫である』を書いた小説家ではないことが論理的に存在するからである。そこで、命名儀式においては「これ」という直示的機能を持つ指示詞によって命名するのだと導き出す。「たとえば、対象を「これ」として、直示的に指示する時、その対象は、「私」を中心とする近傍にあるものとして、位置づけられているわけだ。(中略)名前は直示場面における指示を定常化し、保存している」。

 近傍にいる夏目漱石を指して「夏目漱石」と指示することで、命名儀式は遂行される。その指示が定常化され、保存されることで、固有名がそれとして機能することになるのである。

 

4.反復される「命名儀式」と名前の非必然性

 

 第一章で見たように、わらふぢなるおのコントにおいては「広末さん」「あkgjおあぃrあjd」「斉」「斉藤」「斉藤力」「さいもう」「THE伊藤」といった呼び方はいずれも斉藤力也その人を指示していることを、会話の話し手と受け手が共通に理解している。

 そして第二章で見たように、「わらふぢなる」「わらふなる」「わらちなるお」「わぶちなるお」といったコンビ名の誤解、「バンクシー」という別人の名乗り、「海鮮かき揚げ名人」といった改名の提案があっても、それらはそれぞれ、コミュニケーションの現場において、わらふぢなるおというコンビ、ふぢわらという芸人、口笛なるおという芸人を指示していることは明確である。

 「夏目漱石」という固有名は、あらゆる可能世界において常に夏目漱石その人を指示している。しかし、「夏漱石」だったらどうだろう。あるいは「太宰治」という既に別の対象を指示する固有名や、「ああああ」という対象の存在しない無意味な文字列によって夏目漱石その人を指して言うことは可能だろうか。そのような問いを立てることができる。

 ここで「夏漱石」は、固有名の些細な誤りという点で「さいう」「ふじら」または「わらふなるお」と同種である。「太宰治」は、ある対象を既に存在する別の固有名をもって指示する点で「広末涼子」または「バンクシー」と同種である。「ああああ」は、何も指示するものがない出鱈目な文字列という点で「あkgjおあぃrあjd」と同種である。

 わらふぢなるおは、ネタにおいてもその芸名に関する現実でのやり取りにおいても、これらはすべてそれぞれわらふぢなるおふぢわら、斉藤力也その人を指示していると示している。何故そのようなことが可能になるのか。それは、大澤のいう直示的機能を持つ指示詞によって命名する「命名儀式」が、コミュニケーションの現場において、何度も反復して執り行うことも、なかったことにすることも可能だからだ。

 クリプキによれば、固有名を伝達された人は、その固有名によって伝達した人と同じ対象を指示することを意図する必要がある。つまり、固有名を伝達された人は、その固有名によって伝達した人と別の対象を指示することを意図してはならない。しかし、同じ対象を、別の固有名によって指示することについては不可能であってはならない。そうでなければ、ペンネームや芸名というものは成立しない。「夏目漱石」と「夏目金之助」は同一人物を指示しており、夏目漱石が占い師である世界では、夏目金之助もまた同じ占い師である。「斉藤力也」と「口笛なるお」は同じ人物を指しているのだし、「海鮮かき揚げ名人」も「半沢直樹」も同じ人物を指し得るのである。口笛なるおその人を指示する固有名の文字列が、「口笛なるお」である必然性は無い。

 わらふぢなるおのコントにおいて、隣人の藤原が斉藤の家の扉を叩いて「広末さん」と呼ぶとき、斉藤に対して「広末」という固有名を付与する命名儀式が行われている。しかし斉藤が既に「斉藤」という固有名を授かっていると知ると、「広末さん」を撤回する。一方で、「斉藤」が本名と知っておきながら、当人のミスによって付与された「さいもう」という別の固有名で相手を呼び続け、自身に「ふじやら」という固有名を付与する命名儀式を敢えて行うこともできる。

 命名儀式の執行そして取り下げが可能になる条件は、そのとき相手の存在が互いに「「私」を中心とする近傍にあるもの」であることだ。コントにおいては、口笛なるお演じるキャラクターとふぢわら演じるキャラクターが常に(ほとんどの場合、一対一で)出会っている。隣人が斉藤の家の扉を叩くとき、命名儀式の条件は既に満たしている。そして観客は、両者がそのような仕方で出会っていることを理解しているために、その命名儀式によって付与された固有名のおかしさによって笑うということができるのだ。

 

おわりに

 

 わらふぢなるおのネタには他にも言語に関する問題を扱ったものがいくつかある。特に彼らの代表作ともいえる『空質問』のコント及び漫才は、相手の発言の中で前提となっている情報について逐一質問するというものであるが、これも「名前を間違える」という身振りの延長線上にあるものとして捉えることができる可能性がある。これを今後の課題の一つとしたい。

 

脚注

[1] 2020年(コロナ禍での延期により舞台での披露は2021年)にふぢわらが脚本を務めた『舞台TWiN PARADOX「SONG STORY Vol.1」演目B「燃えて散った花となれ」』においても、主人公をその部下が「藤本」ではなく、由来不明の綽名「スーさん」と呼んでしまい自ら訂正するというくだりが前半において繰り返される(これは物語のカギとなる主人公の“奇妙な名前”の伏線となっている)

[2] 2007年10月18日~2012年5月10日にふぢわらが更新していたブログ『わらふぢコラム~右からケツ野郎ケツ野郎ひとつも飛ばずにケツ野郎~』を指す。当ブログは2020年1月31日にヤプログ!のサービス終了に伴い現在ネット上での閲覧ができない状態となっている。

[3] 名前の両端の恐竜については、2019年10月23日のふぢわらのXに投稿されたポストに初めて言及がある-⑧。

 

引用コント

・『隣人』オンバト+(2011年10月15日)など

・『コールセンター』新人内さまライブチャンピオン大会(2016年12月23日)、キングオブコント2017決勝(2017年10月1日)など(ライブレポなどの情報から、初出は2014年以前である可能性が高い)

・『バンジージャンプキングオブコント2019決勝(2019年9月21日)など ※ただし、引用した名前のくだりは過去に別のコントに使われていたこともあり、初出の時期は特定できていない

・『美容室』キングオブコント2020準々決勝(2020年8月15日)など

・『ハンコ屋』ザ・葡萄王2022(2022年4月16日)など

 

引用したXの投稿

 

https://x.com/warafudi/status/302765345117192192

https://x.com/warafudi/status/302766207713550336

https://x.com/naruo7013/status/1875059767967944996

https://x.com/naruo7013/status/1322556854212325378

https://x.com/warafudi/status/1322077338616492033

https://x.com/warafudi/status/1805569998519517444

https://x.com/warafudi/status/1855826729702711329

https://x.com/warafudi/status/1186860591916339200

 

引用文献

・ソール・クリプキ『名指しと必然性 -様相の形而上学と心身問題』八木沢敬、野家啓一訳(1985)

大澤真幸「固有名の非固有性」(1988)『意味と他者性』(1994出版)

 

参考文献

・桜井 芳生「柄谷とクリプキの「ツチブタ」的差異 ─大澤の「宇宙」と「世界」・ルーマンの「脱トートロジー化」と連関させて─」(1990)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/ojjams/5/2/5_2_2_91/_article/-char/ja/

クリプキの『名指しと必然性』とそれに対する大澤の解釈について、参考にした。

 

※誤字脱字、問題点などあればご指摘いただけると有難いです。

わらふぢなるおが過去に出演した番組やライブに関する情報をお持ちの方、修正すべき点、追記したほうがいい情報などがあれば是非お教え下さい。

わらふぢなるお公式Youtubeにて、当ブログの記事を取り上げていただきました(2024/10/19)

わらふぢなるお公式Youtubeにて、当ブログの記事を取り上げていただきました。

 

 

www.youtube.com

「わらふぢのコントのすごすぎる分析発見!本人達で見てみよう【わらふぢなるお】」(2024/10/19)

 

 

拙文を読んでいただき大変恐縮です。

わらふぢなるおのお二人、スタッフの方、温かいコメントをしてくださっている視聴者の方々、ありがとうございます。

 

※取り上げていただいた記事

binzoko-kaeru.hatenablog.com

最近、わらふぢなるおのことを調べると何故かこの記事が検索結果でそこそこ上位に出てくるようになっていることに気づき、お二人にご不快な思いをさせないかと気がかりで非公開にしようか迷いつつ、そのままにしてしまっていたのですが残しておいて良かったです。

 

動画が投稿された当日中にこの記事を上げたいので、短いですがひとまず視聴のご報告と御礼を申し上げます。

 

ーーー2024/10/20追記ーーー

 

自分自身のことについては、本当に取るに足らない人間なので何も書くことはないのですが、ただ、わらふぢなるおのファンである(単に分析の素材としたなどというわけでは勿論なく、いちファンとしての熱意をもって書いた)ことは四年越しにここに追記したいと思います。

 

以下、ここに書くべきことではないのかもしれませんが、もし関係者の方が見てくださっていたらこのような要望、需要があるということをご認識いただければ幸いと思い、記します。

 

わらふぢなるおのお笑い珍道中」の配信販をご検討いただけませんでしょうか。

 

よろしくお願い致します。

落下と反復、落下の反復——わらふぢなるおのコント『バンジージャンプ』の修辞性について

追記 わらふぢなるお公式Youtube(2024/10/19投稿の動画)にて当記事を取り上げていただきました。

www.youtube.com

 

拙文を読んでいただき大変恐縮です。

わらふぢなるおのお二人、スタッフの方、温かいコメントをしてくださっている視聴者の方々、ありがとうございます。

 

最近、わらふぢなるおのことを調べると何故かこの記事が検索結果でそこそこ上位に出てくるようになっていることに気づき、お二人にご不快な思いをさせないかと気がかりで非公開にしようか迷いつつそのままにしてしまっていたのですが、残しておいて良かったです。

 

自分自身のことについては、本当に取るに足らない人間なので何も書くことはないのですが、ただ、わらふぢなるおのファンである(単に分析の素材としたなどというわけでは勿論なく、いちファンとしての熱意をもって書いた)ことは四年越しにここに追記したいと思います。

 

以下、ここに書くべきことではないのかもしれませんが、もし関係者の方が見てくださっていたらこのような要望、需要があるということをご認識いただければ幸いと思い記します。

 

わらふぢなるおのお笑い珍道中」の配信販をご検討いただけませんでしょうか。

 

よろしくお願い致します。

 

※本文は上記と同じです

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はじめに

 本稿では、わらふぢなるおのコント『バンジージャンプ』に見られる反復がいかなる修辞的効果を持つのか、そしていかに修辞的効果以上の意味を持つのかについて、落下という動作に主眼を置いて解釈を行う。その際、落下のシーンが描かれている有名な三つの映画(『要人無用』『プロジェクトA』『ポリス・ストーリー』)を参照し、落下の描写の違いと、それによって得られる快楽の差異について述べる。

 

  1. わらふぢなるおバンジージャンプ[1]について

 キングオブコント2019で演じられたコント『バンジージャンプ』は、大きく二つの展開にわけられる。前半は口笛なるお演じる客(ツッコミ役)が「7年ぐらい付き合ってた彼女に振られちゃったので、自分を変えたいなと思って」という動機によりバンジージャンプを試みるが、ふぢわら演じるインストラクター(ボケ役)の常軌を逸した行動や言動によって攪乱される。後半は、インストラクターがスリルを追い求めて[2]敢えて危険な状態でバンジージャンプを試み、彼の死を客がロープを投げることで回避させようとする。

 前半に見られるような、ツッコミ役が現れて、ボケ役の狂気的な[3]行動や言動によって日常生活における行為の遂行が遅延され続けるという構成は、初期や中期[4]わらふぢなるおのネタの中でも多く見られる(『メンズエステ』『ケーキ屋』『服屋』『不動産屋』『電気屋』『コールセンター』等)。しかし後期の中でも比較的最近に作られたコントである『バンジージャンプ[5]では、後半にボケ役の大きな身体的アクションが発生し、それに伴いボケ役—ツッコミ役間の関係性も変質する。この「ツッコミ役がいないとボケ役が死ぬ」という関係性がそのままお笑いの構造の反復として考えられるということについては稿を改めて書くことにし、ここではボケ役の身体性に注目してみると、会話を中心に展開される他のわらふぢなるおのコントと明らかに区別されうる。(ただしここでの違いというのは、マゾヒスティックな身体性が実際に演じられている、という点であり、今までそういった身体性についてコントの中で台詞という形で一切登場してこなかったわけではない。『超能力』、ショートコント『ドM専用機』など。)

 わらふぢなるおのコントのもう一つの特徴は、反復である[6] [7]。初期の『ラーメン屋』のように台詞の反復をフリとしているものから、後期の『空質問』のように反復そのものを主題化したコントがある。『バンジージャンプ』においては、客を立て続けに何度も位置に着かせる場面の反復(連続3回、全体で計5回)と、インストラクターが落下して戻ってくる場面の反復(計4回)がある。(また、「ちょっと!僕そういうの他人事と思えないんですよ」「最初からお前のことだよ」は他のコントにも時折挿入されているやり取りであることから、コント間でも反復を行っていることがわかる。)

 以下では主に、この落下躊躇の反復と落下の反復がいかなる効果を持つのかについて映画を参照しながら述べる。

 

 

 

 

  1. 『要人無用』におけるフレーミング、『プロジェクトA』、『ポリス・ストーリー』における落下と反復

 

 『要人無用』(原題:Safety Last!)は1923年にアメリカで製作・公開され、同年に日本でも公開されて人気を博したロマンティック・コメディ映画である。この映画の後半にある、時計の針にぶら下がるという有名なスタントシーンは後の映画にも影響を与えており、例えばオマージュとして『プロジェクトA』(1983年)では、ジャッキー・チェンが同様に時計の針にぶら下がり、そして(元の作品とは異なり)落下するシーンがある。

 これらのスタントシーンとわらふぢなるおのコント『バンジージャンプ』の類似性について書くうえで、ネタを作成しているふぢわらの尊敬する人物がジャッキー・チェンであり、芸人を志す以前はスタントマンを目指していたという経歴を持つことは注目に値する[8]

 さて『要人無用』であるが、映像学的な説明として、以下そのまま引用する。

 

 実際に映画スターたるロイドが高層ビルをよじ登っているわけではなく、中村秀之が説明しているように、高さの異なるビルの屋上でセットを組んで撮影するという、俳優の身の安全を配慮したトリック撮影が用いられていた。このフレーミングの効果を利用したトリック撮影によって、まず、ロイドと地上を同一のフレーミング内におさめることは回避され、両者の空間的な連続性は分断される。〔…〕観客にしてみれば、もしロイドが手を滑らせて落下してしまったときのその高さは、時折挿入されるロングショットや、もしくはミディアム・ショットにおける前景と後景の距離感をもとに想像するしかない。ロイドを切り取るフレームの下は実在しない空間となり、観客は「フレームによって不可視にされている下方(オフの空間)を想像して慄然とする」(中村 97)。つまり、この映画における落下は、奈落の底への墜落を意味するのだ。〔…〕上述のトリック撮影による制約もあり、ロイドの落下運動が描かれることはない。そこにあるのは運動の始点と終点だけであり、その途中は空白となっている。(雑賀 p52)

 

 このとき、観客は「滑稽な道化師を一方的に笑うことによるサディズム的快楽を得ることになる」(同 p54)。

 一方で、『プロジェクトA』では、ジャッキー・チェンの落下運動がロングショットのワンショットで描かれ、ジャッキーは正真正銘、落下する。しかもその落下は2回繰り返され、NGテイクで3回目の落下が映し出されるが、これらはいずれも別々に撮影した映像である。そしてこの作品の次作『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(1985年)ではこの落下の反復というものがさらに強調され、同一の落下を異なる角度から映した映像が3回繰り返し映し出される。この反復によって得られる効果は以下のようなものであるという。

 

 観客は落下する衝撃がもたらす苦痛を感じ取ってしまう。しかし、それが反復されることでその苦痛は帳消しにされる。物語上の意味は分散し、落下の運動だけが残る。〔…〕『ポリス・ストーリー』でも三度繰り返される落下がおこなわれている間、観客は物語が再開するのを待たなければならない。反復されなければ、この電飾ポールを滑り落ちるスタントはチェイス(クラフトンのギャグ論における「物語を進行させる水平的領域」)の領域から出ることはないが、反復によって視覚的にも(「物語を中断させる」)垂直的領域のパイに変換される。(同 p64  文中の()内は筆者による)

 

 そしてこの反復によってジャッキーの肉体は記号化し、形象化するが、そのとき観客は「肉体的な痛みの感覚に襲われながらも、それに慣らされ、ジャッキー・チェンのアクションをスペクタクルに変換し、マゾヒズム的快楽を享受するという両義的状態」におかれるという(同 pp64-65)。

 以上で述べた『要人無用』のフレーミング、『プロジェクトA』『ポリス・ストーリー』における落下と反復の理論を、わらふぢなるおの『バンジージャンプ』に対して応用を試みる。

 

 

 

  1. バンジージャンプ』におけるフレーミングと落下の反復

 

 蓮實重彦によれば、映画というのは「縦の世界を垂直に貫く運動に徹底して無力であ」り、表象不可能性がそこに立ちはだかる。つまり、落下は一回きりの運動でありかつ死をもたらすものである。

 ただ映像の場合は『要人無用』のようなトリック撮影、あるいは最近ではCGなど編集技術を用いることで全く不可能であるわけではない。しかし演劇となると、まず劇場には屋外と異なり天井があるため高さを出すのに限界があるし、編集もできない。とりわけコントにおいては舞台美術も限られる。そのためか、落下をモチーフにしたコントというのはあまり見かけないように思われる。

 そんな数少ない落下コントのひとつとして、チョコレートプラネットの『スカイダイビング』がある。このコントでは、長田演じるインストラクター(ツッコミ役)が飛行機の上でスカイダイビングについての説明を試みるが、松尾演じる客(ボケ役)が風の強さによってか全く聞き取れない(「なんで下(地上)で言ってくれなかったんですか!」)。インストラクターは話が伝わっていると勘違いしたまま、パラシュートを客に預け、飛んでいる最中に空中で渡してもらって着けるというパフォーマンスをすると伝え、何も着けずに飛び降りる。しかしそれも聞き取れなかった客はパラシュートが不要なのだと勘違いし、不安をおぼえつつも何も着けずに飛び降りる。落下の結果は描かれず、不在の舞台とパラシュート(の入ったリュック)が残されてこのコントは終わる[9]。(ちなみに、このコントに対して番組MCを務めていた千鳥のノブが「死んだ?」とコメントしている。)

 このコントの舞台設計は以下のようなものである。これは飛行機の代替である小高い台の上に二人がおり、その下には横長の黒い板が立てられている。台から降りて、その板の後ろに隠れることによって落下を表現する。この板によって表象されるのは、「フレームによって不可視にされている下方(オフの空間)を想像して慄然とする」の、「オフの空間」にあたるといえる。そして下方への垂直落下は、蓮實が述べたように一回きりの運動として死をもたらしている。

 一方で、わらふぢなるおの『バンジージャンプ』においては、舞台上の動作は水平的である。「オフの空間」を生みだすフレームは板によって作られているが、その板は二人の身体に対して垂直ではなく並行に立てられている。その板の右側にある台[10]に乗り、そこから板の後ろに向かってジャンプすることで落下を表す。これにより、落下の軌道は「し」の文字を上下逆さにしたような形になるが、客席から実際に見ることができるのは跳躍が描く弧のみであり、垂直落下は想像によって補われるし、補われなければならない[11](実際に落下しているわけではないため)。「そこにあるのは運動の始点と終点だけであり、その途中は空白となっている」。その空白を埋める想像をする際、前半での客の落下躊躇、「こんなんで跳んだら死んじゃいますよ」というインストラクターの発言を巡ってのやり取り、インストラクターが落下した際のリアクション等が効果的な役割を担っている。

 こうした平面的なフレームの設計により、落下は反復可能なものとなる。しかしジャッキー・チェンによる“本当の”落下の反復と異なり、肉体的苦痛は伴わない。「肉体的な痛みの感覚に襲われながらも、それに慣らされ、ジャッキー・チェンのアクションをスペクタクルに変換し、マゾヒズム的快楽を享受するという両義的状態」に観客がおかれるというジャッキー・チェン映画についての批評も、このコントについては当てはまらない。

 しかしこれは、映画とコントの差異というごく単純な理由による。つまり、映画では物語が優位に立つが、コントでは笑いそのものが先行する。よって反復によるギャグは、物語こそを描くことが(少なくとも表向きには)目的化されている映画では「物語を中断させる垂直的領域」だが、物語が笑いに従属するコントでは、その性質上、中断こそが主題化される。 よって、落下躊躇の反復と落下の反復による物語の中断は、ギャグを自己目的化するコントにおいては極めて正当である(ただし後述の通り、この反復はコント的な修辞性に留まるものではない)

 さらに、コントの中でもわらふぢなるおの特徴として、設定をあまり重視していないということが挙げられる[12]。構成も、口笛なるお演じるツッコミ役の日常生活にふぢわら演じるボケ役が現れて妨害するというものが多く、そこにあるのは「生活」と「攪乱」という操作[13]であり、物語ではない[14]。つまり厳密にいえば、中断され続けるのは物語というよりはツッコミ役の背景にある生活ないし生活における行為の数々である(ケーキを買う『ケーキ屋』、ドライヤーを返品する『電気屋』、バンジージャンプを跳ぶ『バンジージャンプ』等々)。

 そしてその際、肉体的苦痛という点でジャッキーに対応するのはボケ役であるが、ジャッキーが映画内で否応なく落下してしまうのに対し、わらふぢなるおのコントではインストラクターが自ら落下を欲望し、遂行する点で狂気的であり、「あれじゃ走馬灯見えないんですよね」という台詞も感情移入を妨げるものである。落下そのものが描かれないという点でも、観客がマゾヒズム的快楽を享受することはない。一般的にコントでは、ボケ役とツッコミ役が分かれている場合、当然ツッコミ役が常識人であるが、『バンジージャンプ』には無いがわらふぢなるおの他のコントでは、ツッコミ役の、すなわち口笛なるおの身体的特徴に言及する台詞があったり(「bが壊れちゃったら、「僕はブクブク太った豚です」って打てないですよね」『コールセンター』[15])と、ツッコミ役の喜劇性が強調されることがある。また、『バンジージャンプ』において他者の死を左右する“手綱”を握る(握って投げる)というのは大きな精神的苦痛であり、観客はそれに感情移入することを促されるというより、ロイドの『要人無用』の観客と同様、その困惑や動揺に対してサディズム的快楽を得る。

 しかしそれだけではない。観客が享受するのは、反復そのものの快楽である。先述した通り、反復はわらふぢなるおのコントの特徴である。とりわけ、コント『空質問』では、疑問文という形式の反復が行われている。また、キングオブコント2018より少し前のマイナビLaughter Nightにて披露されたバージョンでは、空質問をしなかった反動で大量かつナンセンスな質問(「自動ドアは自動で開くんですか?」「おしっこはトイレでするんですよね?」等)をバグのように繰り返すくだりが存在した。このようにある種自動化された反復は、コント『メロス』においてもみられる。

 ここにおいて、反復は一般的な修辞的技法以上の意味を持ち、自己目的化しているように見える。このことは『空質問』『メロス』という強度な反復を扱うコントに限らない。そこでは、演じ手の反復への欲望と作り手の反復への欲望、さらには観客の反復への欲望が一致しているのだといえる。

 

  1. おわりに

 

 未だ解決されていないいくつかの問題がある。「ツッコミがいないとボケが死ぬ」というツッコミ役とボケ役の関係性について、『バンジージャンプ』でのインストラクターの行動原理として考えられるマゾヒズムについて等々。また、反復を扱った本稿においても、反復がいかに快楽となるかについては言及しなかったが、これについては心理学および哲学史上様々な議論があり、それらの中から信用に足る一つの理論を持ち出すことが困難であったことがその理由である。フロイトの『快楽原則の彼岸』の「神経症」にまつわる議論や「死の欲動」からの説明が有効であると現時点では考えているが、なお検討の余地がある。

 

 

[1] 公式の名称ではない。以下のコントタイトルも、筆者が便宜上付けたものである。また、台詞も筆者による聞き書きである。

[2] この意図はインストラクター(ボケ役)から直接話されるわけではなく、客(ツッコミ役)のツッコミからそのように位置づけられている。

[3] 「狂気的」といった形容は本人も認めるところであり、キングオブコント2019の事前インタビューにおける「まあ正統派の中に狂気も交じってるコントが推しみたいな感じですかね。」というふぢわらの発言などがある。(2019年9月)

「<キングオブコント>昨年“準優勝”わらふぢなるお「皆、チョコプラさんしか覚えてない(笑)!」」https://thetv.jp/news/detail/204316/

[4] 本稿では、キングオブコント決勝進出初年である2017年以降を「後期」、新人内さまライチャンピオン大会出場年の2014年から2016年を「中期」、そして2010~2013年を「初期」とする。

[5] Twitter等でライブの感想などを調べたところ、2019年以前のレポは見つからなかった。初出が判明し次第追記。

[6] 以下のブログでは、ふぢわらの旧コンビである南京錠として出場したM-12009の2回戦において、反復の技法が見出されたことが記されている。

M-1グランプリ2009東京2回戦4日目11/7」http://inutuka.jugem.jp/?eid=132

[7] お笑いの文脈では技法として「天丼」という用語が付されているが、本稿では修辞学の「反復法」を前提にしているため「反復」と呼ぶ。

[8] 倉本美津留Youtube大喜利」(2020年10月27日)でのふぢわらの発言。なお、このエピソードが話されたのはおそらくこの時が初めてである。

[9] チョコレートプラネットの『監禁』に見られる、話を聞かない(聞けない)ことによるディスコミュニケーションが(描かれてはいないが)死をもたらすというこのコントは、例えば『ジェットコースター』にも同様の構成が見られる。

[10] キングオブコント2019では二段の階段であったが、ライブではより低い台(一段)が使われていることがあった。また、フレームは板ではなくカーテンであった。

[11] キングオブコント2019では、インストラクターの四度目の落下時に、舞台全体ではなく彼の表情をアップで映していた。その部分を注視すると、上方向に跳躍したときの彼の腰のあたりまで頭が沈んでおり、意外と高さがあることがわかる。ただ、この角度から映すと後ろの壁が見えてしまい、板の後ろを想像上の空間とする舞台設計に反しているようにも思える。

[12] スピードワゴンの月曜The NIGHT(2019年9月24日)でのふぢわらの発言を参照。

[13] ここで用いた「操作」という語は、バタイユのアンフォルム概念を下敷きにしている。

[14] 物語的なコントとしては、『殉職』『不倫謝罪会見』があり、前者は7分超えの比較的長い尺のコントで、後者は番組で披露するために作られたネタである。いずれも珍しい例。

[15] 新人内さまライブチャンピオン大会(2016年)では、「僕はバカな豚です」と台詞が異なる。

 

 

 

引用コント

(演じられるにしたがって筋や台詞の変化を経てはいるが、観た中で最も古い版と最も新しい版を比較することで、おおよそ共通しているであろう筋のみを扱った。)

 

わらふぢなるお

・『バンジージャンプキングオブコント(2019年9月21日)など

・『メンズエステ』オンバト(2013年4月20日)など

・『ケーキ屋』第2回単独ライブ(2014年3月28日)など

・『服屋』第173回サンミュージックGETライブ(2013年2月13日)など

・『不動産屋』新人内さまライブチャンピオン大会(2014年12月12日)など

・『電気屋』新人内さまライブチャンピオン大会(2015年12月8日)など

・『コールセンター』新人内さまライブチャンピオン大会(2016年12月23日)、キングオブコント(2017年10月1日)など(ただしライブレポなどの情報から、初出は2014年以前である可能性が高い。)

・『超能力』キングオブコント(2018年9月22日)など(ただし初出は2015年以前で、現在は閉鎖されたふぢわらのブログより、アイデアそのものは2010年頃にはあったと見られる。)

・ショートコント『ドM専用機』熱烈!ホットサンド(2019年7月27日放送)など

・『ラーメン屋』オンバト(2011年8月27日)(オフエアネタ)など

・『空質問』第5回単独ライブ(2018年5月6日)、マイナビLaughter Night、キングオブコント(2018年9月22日)など

・『殉職』第5回単独ライブ(2018年5月6日)

・『不倫謝罪会見』お願い!ランキング「ネタサンド!」(2020年8月12日放送)

・『メロス』第2回単独ライブ(2014年3月28日)など

 

チョコレートプラネット

・『スカイダイビング』そろそろにちようチャップリン(2019年10月26日放送)など

・『監禁』キングオブコント(2018年9月22日)など

・『ジェットコースター』チョコレートプラネット ベストネタライブvol.2(2017年11月4日)など

 

 

引用文献

 

・雑賀広海「落下と反復のスペクタクル——『プロジェクトA』と『ポリス・ストーリー/香港国際警察』における肉体性と形象性」映像学101号、pp49-68、2019

 

・中村秀之『瓦礫の天使たち——ベンヤミンから〈映画〉の見果てぬ夢へ』せりか書房、2010

 

・『要人無用』(原題:Safety Last!) Fred C. Newmeyer, Sam Taylor、1923

2019年にパブリックドメインとなった(以下のリンク参照)ため、ネット上で全編映像を視聴することが可能である。

https://lifehacker.com/these-1923-copyrighted-works-enter-the-public-domain-in-1825241296

 

・『プロジェクトA』(原題:A計劃)ジャッキー・チェン、1983

 

・『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(原題:警察故事)ジャッキー・チェン、1985

 

 

参考文献

 

・イヴ=アラン・ボワ/ロザリンド・E・クラウス著、加治屋健司/近藤學/高桑和巳訳『アンフォルム 無形なものの事典』芸術論叢書、2011

(「操作」の語に関して、参考にした。)

 

牛島定信編『精神分析入門』放送大学教育振興会、2007

(「おわりに」で触れたフロイトについての記述に関して参考にした。)

 

 

 

※誤字脱字、問題点などあればご指摘いただけると助かります。

わらふぢなるおが過去に出演した番組やライブに関する情報をお持ちの方、修正すべき点、追記したほうがいい情報などがあれば是非お教え下さい。