キングオブコント2020も最高でした記
キングオブコント2020が終わって5日経ちました(10月1日現在)が、まだ面白いコントの余韻に浸っています。録画したのを何度かみていたのですが、Paraviで過去のKOC決勝も見れるということで、無料体験期間を利用して2020と、それ以前の大会も見返しました。
コントは進化しない(それが悪いというよりは、性質上進化しないものである)、なんて意見をどこかで見かけましたが、少なくともこの賞レースにおいて評価されるコントは、一定の傾向や風潮を示しており、それは時代と共に変化しているように思えます。
なのでまず、2018と2019-2020という近年のコントに見られる共通点などについて考えてみようと思います。
この記事は全体で約1万3千字です。多分ちょっと長いので、先に目次的なのと、言及している芸人とコントを挙げておきたいと思います。(◎は大見出し、〇は見出しみたいなもの。括弧つきはKOCではやっていないコント)
◎KOC2018のコントの傾向 ー ディスコミュニケーション
〇チョコレートプラネット『監禁』『棟梁』
〇わらふぢなるお『コンビニ』『超能力』
〇ハナコ『犬』『追いかけっこ』
・やさしいズ『爆弾』
・にゃんこスター『リズム縄跳び』
・どぶろっく
・バンビーノ
◎KOC2019と2020のコントの傾向 ー 声の混乱
〇うるとらブギーズ『催眠術』『陶芸家』
・空気階段『タクシー』
・ロッチ『試着室』
〇ゾフィー『謝罪会見』
〇ジャルジャル『野球練習』
〇ジャルジャル『空き巣タンバリン』『くしゃみとゲップとあくび』
・どぶろっく
◎KOC2020 各ファイナリストのコントの感想(テーマなし・全ファイナリストについて)
〇滝音『ラーメン』
〇GAG『河川敷』
・GAG『幼馴染』『居酒屋』
〇ロングコートダディ『箱』
(・空気階段『サウナ』)
〇ジャルジャル『野次ワクチン』『空き巣タンバリン』
・かまいたち『告白練習』
(・ジャルジャルM-1『ピンポンパンゲーム』『国名わけっこ』)
・ジャルジャル『しりとり』『空き巣』『野球部』『くしゃみとゲップとあくび』『おばはん』『野球練習』
・GAG『河川敷』
・ザ・ギース
・ニューヨーク
〇ザ・ギース『ハープ』
・チョコレートプラネット『棟梁』『ポテチ業者』
・さらば青春の光『パワースポット』
〇うるとらブギーズ『陶芸家』
(・うるとらブギーズ『サプライズ』)
(・うるとらブギーズ『迷子センター』)
(・ニッポンの社長『シャチと少年』『殺人鬼襲来』『ヒーロー』)
〇ニューヨーク『余興』『ヤクザ』
(・ニューヨークM-1『ラブソング』)
・GAG『河川敷』
・さらば青春の光『パワースポット』
・ジャングルポケット『エレベーター』
・ザ・ギース
〇ジャングルポケット『誘拐』
・ジャングルポケット『エレベーター』『トイレ』
2018年 ディスコミュニケーション
この年はディスコミュニケーション的なコントが高く評価される傾向がありました。しかも単なる「話が通じない」とは全く異なります。言語の扱い方がまず違うのです。
ファイナリスト3組に絞って見ていきます。
ファーストステージでこの年の最高得点(478点)を叩き出したチョコプラの『監禁』はまさにそういうコントだと思います。話し手と聞き手とが別の意味を付与するすれ違いコントとは異なり、もはや「すれて」すらいない。
そして、わらふぢなるおの一本目『コンビニ』(空質問)もまた一種のディスコミュニケーションの形を示しているのですが、チョコプラの身体的なコントに比して、わらふぢなるおは言語に特化しているのが印象的でした。
ハナコはこの二組ほど極端ではありませんが、二本目『追いかけっこ』も女子の意図がわからない、「あの子をつかまえて」と告げる謎の女子の存在など、最終的には「女子の難しさ」にという比較的わかりやすい結末に着地しますが、相手の意図の不明瞭さが一貫してコントのテーマになっています。
それがメインというわけではありませんが、『犬』の犬もまた人間に言葉の通じない存在です。
また、以上に挙げた四つのコントは、「質問」がかなり鍵になっています。
・チョコプラ『監禁』→「ここはどこ・お前は誰・この器具は何・この匂いは何」
・わらふぢなるお『コンビニ』→(省略)
・ハナコ『追いかけっこ』→「なぜ・この女子は誰」
・ハナコ『犬』→「誰」
そしてその答えは、質問する側の態度によって(チョコプラ)・質問が無意味かつ無限であることによって(わらふぢなるお)・質問される側の性質によって(ハナコ)、解消されない状態が維持されています。
ファイナルのチョコプラとわらふぢなるおのコントは、フィクション内のレベルでも、メタレベルでも、閉鎖的なコミュニケーションが見られたかと思います。
チョコプラの『棟梁』は、両ボケである(フィクションレベルの閉鎖性)ことに加えて、「意識高い系」という面白さのコードを共有している人にのみ伝わる(メタレベルの閉鎖性)ものだったのかもしれません。
(個人的には、KOCより先にチョコプラのネタDVD『チョコレートプラネット vol.2』で見たことがあり、そこに収録されているライブでは「意識高い系」も観客に伝わっていた感じでしたし、面白いネタだと思います)
(余談ですが、チョコプラ二本目とやさしいズ『爆弾』の評価の低さの一因は、審査員が何かある笑いの感覚を共通に欠如していることで、二つのコントの「伝わらなさ」は同種のものなのではという気がします)
わらふぢなるおの『超能力』は、超能力そのものが本質的に「かかっている相手にしか効果がわからない」もの(フィクションレベルの閉鎖性)であり、某審査員が「部屋で二人でやっているみたい」等と冗談交じりに評したのはメタレベルの閉鎖性への言及に他ならないと思います。
(また余談ですが、チョコプラの『棟梁』は「意識高い」というワードを重視していて、わらふぢなるおの『超能力』は身体的な演技が求められるコントだから、その点だけで言えばそれぞれ逆のほうが「らしい」ような感じが少ししました。
ただこれらの構成を比較することで、チョコプラの「両ボケ」「小道具」「反復するが法則にはあまりこだわらない」、わらふぢなるおの「はっきりしたボケツッコミ」「強いワード」「反復回数やタイミングに強い法則性がある」と、結果的に互いの特色がはっきり見ることができるコントになっていると思います。)
ところで、賞レース決勝では二人の関係性が閉じていて、その世界観を見せるというようなコントは比較的評価されにくい傾向にある気がします。「何を見せられてんねん」という某審査員の声が聞こえてきそうです。
というか、テレビ番組の審査員って純粋な観客ではなく演者でもあるから、自分が今どういう状況にあるかについての反省意識がおのずと高くなり、世界観に没頭するというコントの見方がしにくいのでは。
歌ネタ・リズムネタの低評価リスクも、その世界観の閉鎖性が理由の一つかもしれない(3助さんが「跳べな~い!!」を客席ではなくアンゴラ村長さんのほうを向いて言っていたら、少し変わっていたのかも?)(どぶろっくの歌ネタにはツッコミがいる)。
でもそう考えるとバンビーノの異色さが際立ちますね。石山さんがタイミングなど演技に対して物凄くストイックらしいですが、馬鹿馬鹿しさに逃げずに洗練されたリズムネタをやる芸人さんってかなりレアなのでは。
2019 - 2020年 声の混乱
2019は(相手の・自分の)同一性が混乱するコントが増え、それが2020にも引き継がれているような気がします。
2018のコミュニケーションの問題から、個人の内部の問題になったという感じです。
そしてそれらのいくつかは、「声」というモチーフによって表象されています。
これは演技の問題(声を高くする、大きくする、変な声を出す)というよりは、扱うモチーフとしての「声」です。
具体的にそれらのコントを挙げていきたいと思います。
〇うるとらブギーズ 2019一本目『催眠術』 2020『陶芸家』
うるとらブギーズ2019一本目『催眠術』は同時に喋ってしまう人という設定でしたが、この「声の複数化」という主題は2020『陶芸家』と共通しています。
『陶芸家』は、作品の声=美的感覚(内的な声)と、師匠の自分の声・弟子の声(身体的な声)、そして身体の間に起こる時間的なズレが軸となって展開されます。
自分の声「ダメ」と美的感覚「イイ」の間にズレ(作品の声が弟子の声のせいで聞こえない)
→弟子の声「イイ」と自分の声「ダメ」とのズレ + 自分の声「ダメ」と美的感覚「イイ」との間にズレ
→弟子&自分の声「イイ」と美的感覚「イイ」は一致するも、身体との間にズレ
→師匠&弟子自身の声「イイ」と弟子自身の美的感覚「イイ」は一致するも、身体との間にズレ
→速度を落としても同様(オチ)
このコントの特色は、二人の間のズレではなく、それぞれ自身の身体と心で生じるズレが肝である、という点です。
師匠「ダメ」と弟子「イイ」という関係性が次第に師匠「イイ」と弟子「ダメ」と逆転していくという関係性の変化も同時に描かれているのですが、悲劇を生み出すのは常に自分の内部で起こる時間的なズレです。
その微々たる時間のズレが、陶芸作品の破壊という不可逆的な行為を不本意にもしてしまい、最後には大師匠の作品という過去(師匠との思い出的な意味で)にも未来(文化財保存的な意味で)にも伸びた長い時間を象徴する物を破壊してしまう、という悲劇を生み出しています。
一方、『催眠術』は他人の声が同時に重なってしまうコントなので、その点においては対照的です。ただ先ほども書いたように、いずれも複数の声が起こすトラブルです。
ちなみに、KOCではやっていませんが公式YouTubeチャンネルにアップされている『いたこ』も、イタコが自分の声(肉声)と、依頼者のおじいちゃんの霊の声との間のズレを題材にしたコントとも捉えられます。
〇空気階段 2020一本目『霊媒師』二本目『恋』 2019『タクシー』
この二つは一見、雰囲気や構成が全く異なるコントですが、私的な「声」を聞かせようとして公共の電波を誤受信してしまう『霊媒師』と、私だけが受信・解読可能な好きな人の「声」を聞く・(歌を)聴くという『恋』の間には対応関係が見出せます。
また、空気階段2019『タクシー』は「声」は主題となっていませんが、人物そのものの複数性というのが、「声」の複数性をテーマにしたジャルジャルやうるとらブギーズのコントと比較し得るのでは……と考えていましたが、今のところまだ思いつかないので後々加筆しようと思います。
ちなみに、空気階段の『タクシー』は、一度降車して舞台から消えたかたまりさんが再び別の人間として姿を現しますが、2019で同じ点数で最下位だったわらふぢなるお『バンジージャンプ』は、インストラクターが生死不明の状態で舞台から消え、再び生きて姿を現すというような形になっています。
同じ体が何度も登場するということではロッチ2015『試着室』も同様ですが、こちらは試着室にいることが確定しているのと、「着ている」か「着ていない」のどちらかなので、問題は上の二つほど深刻ではありません。舞台からはけることなく身体が現れたり消えたりを繰り返すシチュエーションとして、「試着室」はとても優れていると思います。(いないいないばあに少し似ている?)
また、『タクシー』は、見た目が同じ人間を他人が区別するポイントが、特殊な「エピソード」であって、「キャラクター(人格)」ではないことも示唆深いと思います。
このコントのオチは「声の交換」です。「声を(意図的に)奪った」と解釈している人もいるみたいですが、いずれにせよ声が入れ替わることに変わりはありません。
(数年前にやったときとはオチが違っていて、声が変わるくだりはなかったようです。)
〇ゾフィー 2019『謝罪会見』
このコントでは、「腹話術師」が「声」を変えることによって自身の問題を隠蔽しようとしたり、本音を代わりに言わせたりしています。
この場合、内部で「声の混乱」が起きているのではなく、「複数の声が現実に存在する(ふくちゃんの声はふくちゃんの真意だ)」ということを外部に思わせようと仕向けている(その企みは失敗しているが、本人は気に留めず演技を徹底している)というコントです。
なので、ある意味では同年2019のうるブギ『催眠術』やジャルジャル『野球練習』と対になっているように感じました。
〇ジャルジャル 2019一本目『野球練習』
2019ジャルジャル一本目『野球練習』は「声の周波数」がコントの軸でした。
声がそれを発する・聞く人間の意識を越えて、情報伝達手段としての声そのものが問題を引き起こしている(そう聞こえてしまう)、という点がジャルジャルらしいような気がします。
(ただ「ジャルジャルらしさ」の正体を言語化するのが難しく、今のところは個人的な直感でしかないです)
後藤さんがメジャーリーグごっこを楽しむシーンこそあれ、一貫して声そのものがどう変化して聞こえるかについてのコントです。
ジャルジャル2020一本目『空き巣タンバリン』はもはや「声」ではなく「音」の過剰さがテーマで、しかも2010一本目『くしゃみとゲップとあくび』を超えて自らの身体と切り離された音を用いた点で、個人的には「行くべきところに到達した」という印象でした。
まあジャルジャルはあまりにネタが多いので直線的に評価し比較することはほぼ不可能なのですが……賞レースのネタを代表とするとすれば、ということです。
そういえば「ジャルジャル」というコンビ名もナンセンスな音の繰り返しですね。
以上が最近の傾向についての概観でした。
ところで、2019優勝のどぶろっくは、精神分析学的にいえばファルスを欲望する男のコントであり、人格の同一性が揺らぐ風潮の中で、このコントが優勝したのは割と象徴的かもしれません。
ここからは2020の各組についてそれぞれ好きな部分などについて、特にテーマを定めずに書こうと思います。
KOC 2020 各ファイナリストについて
〇滝音『ラーメン』
コント的な面白さと漫才的な面白さが交互にやってくるコントでした。
ラーメン屋じゃなくて大食い選手権だった、といういわゆる”バラシ”のあとに、ラーメン屋として動いていたときの齟齬をツッコミによって解体していきつつ(注文してから作る、皿を下げる)も、その振る舞いを維持(餃子)したが「応援したかっただけ」と大食い選手権への理解を示した。と思えば、最後の最後に「お金取る」でまたラーメン屋の性質が復活してくる。結局、大食いとして応援していると言いつつ理解していなかったわけで、キャラの不条理性がこうして保たれる。構成はコント的でしたが、バラシ以降のこうしたキャラの扱い方は漫才っぽい感じがします。
もちろん台詞も。「この辺におニューのラーメン準備しといて韋駄天で出せる用にしとかんかい」で心を掴まれました。
店員が「胃袋テロリズム」という語彙に引っかかって周りの目を気にしつつオブラートに包み過ぎる感じとかは、周りの客というより、漫才で「観客」の目を気にする人の動きっぽいなあという印象を受けました。
その他にも、漫才とコントの差異を考える上で色々と示唆深い部分が結構あったので、また加筆するかもしれません。
〇GAG『河川敷』
今までキングオブコントで披露したコントでは、福井さんの、こちらの世界(観客の感情)とあちらの世界(コントの中)を、いわゆる第4の壁という境界を壊さないまま行きつ戻りつする独特のポジションが特徴的で、コントの世界には関係性レベルで巻き込まれていました(2017『幼馴染』で顕著)。俯瞰したポジションにいるのにその関係性を切れないでいるところに愛嬌や人間味があり、特に2018『居酒屋』のオチの台詞「なんか熱うなって変なこと言うてもうた」でハケていくのは二つの世界の両方の場で言っているようで印象的でした。
しかし、今回の関係性ではなく身体レベルで、そうなると巻き込まれ方は強制力を持ちかつ深刻になります。
そこで中島美嘉とか、フルートじゃなくておじさんを吹いちゃうとか、そして例のテグスとか、ああいう馬鹿馬鹿しさみたいなのを注入する必然性はあったように思えます。
(あと、巻き込まれ役が宮戸さんだったのも大きな変化。)
最初に見た後は、ある人の演技をするメンバーの演技(ex.中島美嘉を演じる坂本さんの演技をする福井さん)の面白さかな、と思っていたのですが、2回目に見たらそれよりむしろ、それぞれのメンバーが同じ役柄を演じたときの差異を見出す、という楽しみ方があるのではないかと感じました。GAGはみんな演技が個性的なのでなおさら。
それにしてもGAGは「画」が綺麗ですね。
ワクサカソウヘイさんのコラムで、GAGの『居酒屋』がミレーの絵画『落穂拾い』になぞらえられています。
「人生の最期に走馬灯でこのネタがよぎりますようにマジで」#1 GAG『居酒屋』 - ラフ&ピース ニュースマガジン
絵画と類似しているという直感には共感するところがあって、このコラムでは、絵画における「構図」や「景色」といった単語が比喩的に使われているのですが、個人的にはそのまま絵画(漫画?)の構図としての美しさがある、と感じています。
だから多分、変にカメラを切り替えるより、カメラを固定するか舞台でみたほうがその綺麗さは伝わるんだろうなとは思います。ルミネで『居酒屋』を見たときは感動しました。
〇ロングコートダディ『箱』
アルファベットと数字の書かれた箱だけが置かれた最初の画でワクワクする。
箱を移動させているときもどことなくロボット的なのに、その移動の法則性は「バカ」の論理で成り立っているというねじれの可笑しさがありました。人間性と機械性の絶妙な均衡点を見た気がします。
堂前さんの演技、「頭悪いからさ」への反応とか、箱を移動させている間の「あっ、ああ…」とか「もったいなかったですね」が絶妙。
テレビだとどうしても映らない瞬間が出てくるので、是非いつか劇場で見たいと思いました。
先ほどは共通点について言及しましたが、今まで決勝で披露した3本はどれも雰囲気が全然違いますね。
以前、ちょうどGAGの『居酒屋』を見たのと同じライブで空気階段の『サウナ』を見たのですが、これもまた異色な(他の芸人のコントと比べて&空気階段の他のコントと比べて)コントでした。
『恋』についてはある記事が出ていましたが、そのアンサーとしてはネタ直後のかたまりさんが言った「恋の尊さみたいなのが伝われば良いなと思って」に尽きるのではないでしょうか。
〇ジャルジャル『野次ワクチン』『空き巣タンバリン』
2017かまいたち『告白練習』は「誰に」言っているかわからない、でしたが、この『野次ワクチン』は「誰が」言っているのかわからないという状況なのが特徴的です。
M-1 2017『ピンポンパンゲーム』2018『国名わけっこ』等に見られるゲーム性が『野次ワクチン』においても発揮されていますが、漫才ではゲームマスター(福徳さん)の提示するルールが不条理(最終的にルールは安定するので後藤さんはついていける)なのに対し、このコントではゲームマスターの立場が不条理になっている。しかもその立場はずっと不安定。
あと面白いのが、漫才だと後藤さんの自己効力感・成功体験への中毒(報酬系)といったプラスの感情が漫才を推進させていくのに対して、コントだと2009『しりとり』、2019二本目『空き巣』、2020『野次ワクチン』・『空き巣タンバリン』みたく本人の人生がかかっていて緊張感のある設定だったり、2009二本目『野球部』、2010『くしゃみとゲップとあくび』・『おばはん』みたく反復への苛立ちなど、マイナス感情が基盤にあります。
(ここには、漫才中の「お前をクビにする」という言語行為が相手に実質的な効力を与えるものでは当然無い一方で、コントではその内部にいるキャラクターに対して効力を持つ、という漫才とコント=演劇の言語のありかたの違いも表れている。)
また、今挙げた四つのコントは本人の今後の人生にかかわる緊迫したシチュエーションを用意していましたが、一方で、2010『くしゃみとゲップとあくび』・『おばはん』、2019『野球練習』は無意味な言語(あるいは音)の横溢に焦点が当てられ、その過剰さが引き起こす問題は軽度なもの(苛立ちなど)になっています。(2009二本目『野球部員』の場合は言語というより身振りの横溢)
それにしても2020年で「入れ替わり」(GAG)「降霊」(空気階段)といったモチーフ、「演技」(ニューヨーク・ギース)の問題(後にニューヨークとギースのところで書きます)が現れている中で、ジャルジャルは日々色んなキャラクターを入れ替わり立ち代わり降霊させる=演技するという形でまさにそれらを体現しているわけで、そんな彼らが優勝したのはある種象徴的で良いなと思います。
〇ザ・ギース『ハープ』
このネタは、高佐さんが実際にハープを弾く・弾けるというのが肝で、アポロン高佐さんとして出たR-1 2020敗者復活も面白かったです。
この、敢えて本物の技術を使うというのは、演技、特にお笑いにおける演技においては扱いが難しいところがあります。
もしお笑いじゃない演劇であれば、本当に演奏することでリアリティが増すのだと思います(逆に明らかに録音したものだと醒める)が、一方でお笑いの場合は本当に演奏することで「芸人(高佐さん)が本当にハープを演奏している」という笑いを生みますが、そうすると今までの新聞販売所のキャラのリアリティが霞むというか、キャラを離れて高佐さんその人になってしまいます。
しかしザ・ギースのこのコントの場合、それは十分に想定済みというか、そもそもそういう笑いを狙っているという例外的なネタです。
だから、演劇的なリアリティは前半のフリのみで後半はある程度犠牲にして、尾関さんのリアクションもオーバーにしているのだと思います。「ここが笑いどころですよ」とちゃんと示さなければ、あとはもうハープの音色に相応しいような芸術的な演劇コントをするしかなくなってしまう。
演者の持つ能力を敢えて前面に出す、という手法はチョコプラのコントにもありました。
2018二本目『棟梁』と、2014一本目『ポテチ業者』です。
今挙げたチョコプラとザ・ギースのコントの「演者が本当に持っている能力を前面に出すという笑い」は例外的で、ある程度知名度が無いと難しいような気がします。現に両者は、過去に決勝進出経験がありました。
基本的には、演劇においては「本物」によってリアリティを増幅させられるが、お笑いの場合はかえって「本物」が演劇的なリアリティを損ねる場合がある、ということです。
ただ、さらば青春の光2017二本目『パワースポット』で、「石が発泡スチロールっていうのが…」っていう松本人志のコメント(果たしてどこまで真に受けていいのかはわかりませんが、少なくともそういった小道具やギミック的なものにも視線が注がれているということは示されていると思います)からもわかる通り、「お笑いだからチープでもいい」ということでは決してないことがわかります。
つまり、台本や演技のリアリティと、小道具やギミックのリアリティが揃っていないとまずい、ということだと思います。
劇場でやってるコントをテレビでやるとき、変にセットが多くて違和感・面白さを損ねている、というのも、これに由来するのではないでしょうか。
あと、チョコプラの『棟梁』と『ポテチ業者』についてですが、この二つは両ボケかつ小道具という共通点を持っていますが、前者は点数が低く、後者は点数が高い。
『棟梁』は、「長田の小道具発表会になってた」という評は、「小道具を出し過ぎていた」というより、「コントの中で小道具を生かしきれていなかった(小道具の存在が浮いていた)」ということだと思います。
(先ほど書いたように「意識高い系」というフレーズが伝わらず浮いていたというのも点が低かった一因だと思いますが。というか、コントのコンセプトである「意識高い系」が伝わらなかったからこそ小道具が浮いてしまった?)
その点で言えば、『ポテチ』は長田さんの演技が褒められていたことからもわかる通り、本物の小道具(しかも自作)に演技力が追いついている、ということで点数が高かったのだと思います。
〇うるとらブギーズ『陶芸家』
このコントについては、2019-2020の傾向のところで構成などについて詳しく書きましたが、やはり「結果的に割ってしまうコント」として見るには勿体なさすぎるネタだと思います。
うるとらブギーズは演技も台詞も本当に好きで、特に有ジェネのファイナリスト芸人下剋上回で披露した『サプライズ』は、独り言の内容もですが急にやめるところとか絶妙にありそうな感じが凄かったです。『迷子センター』のワードチョイスとかも絶妙で大好きです。
『陶芸家』の、「良い……」のところとかは、表情も良いのですが、引きで見てもまた違った面白さが楽しめるような気がするので、是非劇場でみてみたいです。
個人的には、ちょうど帰宅してテレビをつけたらこのネタが始まるところで、「今回のKOC凄いかも」と思ったコントです。
歌ネタを作ろうとしてケンタウロスとミノタウロスという設定に行きついたのか、ケンタウロスとミノタウロスの設定を決めてから歌ネタにしたのか。仮にケンタウロスとミノタウロス・歌ネタというところまで思いついたとしても、HYのAM11:00に辿り着くでしょうか。咆哮からのこちらを向きながらの「この世界が闇に~」が凄く好きです。
今回のコントは違いますが、公式YouTubeチャンネルにあがってる『シャチと少年』とか、あらびき団で披露した『殺人鬼襲来』、『ヒーロー』みたいな、獣性の強い・強大なものに一方的にやられる・やられそうになるのを反復する、というのがいくつかあって、どれも面白いです。
〇ニューヨーク『余興』『ヤクザ』
『余興』に関しては嶋佐さんの動きや表情の演技が終始好きでした。M-12019『ラブソング』でやった米津玄師の動きとかも。移動するところとか、千羽鶴を一人で作りましたのジェスチャーとか、細かいところが凄い面白い。
『ヤクザ』は、これはヤクザ文化あるいはヤクザ映画を下敷きにしているのかどうかで、視聴者の意見や評価が分かれていたみたいです。
下敷きにしているのだとすれば、何度か出てくる「この野郎」はビートたけしのパロディということになるでしょうか。
個人的にはヤクザものの映画は好きでそれこそ『アウトレイジ』も視聴済みですが、本人たちがそれらを元ネタにしているかどうかはともかくとして、非常にそういった映画を想起させる演技だったとは感じました。
だから、もし自分が日本語話者じゃなかった場合、あの演技だけ見たら普通にシリアスなヤクザものの映画のシーンだと勘違いしたかもしれません。そのくらい演技力があったともいえます。
というか、実際一度音声を消して観てみたら本当にそう見えました。(帽子を指すところも頭を指してるように見えるし、最後に帽子をとるのもそういう演出に見えるし)ちゃんとしたセットでやったらもう完全にそれですね。
ヤクザ映画を下敷きにしている、特に風刺しているという意図をそこに読み込むとすれば、ヤクザ一般の諍いのくだらなさを、切った髪を見せるタイミングを失ったというくだらなさで喩えている、という解釈でしょう。
その場合、全体を通じて比喩的なコントということになりますが、そうするとヤクザ的な粋が非常に感じられる「髪型似合ってんじゃねえかこの野郎」は凄く秀逸なオチになっていると思います。
帽子を取ったとき、観客はみんな「いややっぱり髪型普通じゃん!」と思うはずだし、実際に松本人志の笑っている顔が映っているのですが、そこを兄貴が「全然大したことねえじゃねえかよ!」ってキレて大袈裟に・お笑い的にツッコんだりしちゃうと、このコントは一気に崩れてしまいます。
というのも、(ヤクザ文化・映画を前提にしているとすれば)ヤクザのズレた世界観そのものを諧謔的に映し出すことによってお笑いになっているのであり、最後に兄貴が観客側の感情に寄せてわかりやすくツッコんでしまったら、そもそも「ヤクザの世界観がズレている(帽子取らないだけで死ぬほどに)」ということにならないからです。それだと弟分の死は無駄死にになってしまう(物語的にも、構成的にも)。
次に 『余興』について。
ザ・ギースのところで、台本・演技と小道具のリアリティの一致ということについて書きました。
『余興』に関しては、「テグス」(GAG2020『河川敷』)とか「石が発泡スチロール」(さらば青春の光2017二本目『パワースポット』)とか「エレベーターのタイミング」(ジャングルポケット2017二本目『エレベーター』)に厳しいコメントをしている松本人志が、この『余興』で審査員の中で一番高い94点をつけています。
石を持ち上げているときや、ドリルを当てているときの嶋佐さんは「苦しい人間を演じている」のではなく、「余興として苦しい人間を演じているという演技」をしています。
しかもこの新郎の友人はあくまで素人だし、苦しい演技もそこまで深刻な雰囲気になるほど苦しそうではない……という演技を嶋佐さんはしていて、やはりそこには演技力を感じました。
コントなのに客が悲鳴をあげてしまう、というのがKOCでも何度かあり、同じ「ドリルをこめかみに当てさせる」というシチュエーションでも、例えばわらふぢなるお『バンジージャンプ』みたいに現実に死を追い求めてドリルをこめかみに当てさせていた場合、そういうリアクションがあったかもしれません。しかしこれは軽ーい「余興」の場で、「あくまで演技ですよ」の演技です。
それにしても、ネタのために本当にハープを習得したザ・ギースと、短期間で習得しすぎているというネタのニューヨークがファイナルの座を争う構図になったというのはちょっと面白いです。
〇ジャングルポケット『誘拐』
緊迫した場面なのに、斉藤さんがおたけさんと太田さんたちのキャラの話にくいついてしまって盛り上がる、という構造自体は2017一本目『エレベーター』と類似しています。以前のは日常的で、今回のは非日常的なシチュエーションです。
2016『トイレ』みたく斉藤さんが困惑しっぱなしなのも好きですが、乗ってきちゃうパターンも盛り上がって良いですね。
それにしてもトリオは台詞の間やテンポを理想通りに維持するのがただでさえ難しそうなのに、ジャンポケはいつも徹底的に台詞の応酬を持ち味として展開しています。今回のコントは特に難易度が高そうでした。
また、おたけさんと太田さんに関しては「台詞を交互に言っていくという演出をしている人間の演技」になるわけですから、ジャンポケのコントのメタコントと捉えることもできるかもしれません。
以上が今回のKOCをみて感じたことです。
文章について、「気がする」「かもしれない」みたいな断定を避ける表現を多用しましたが、これは他人との見解の齟齬に対する予防線というよりは、自分の解釈を固定しないためです。見たあとすぐはこう感じていました、という記録として書いたので。敬語なのも他人への配慮ではなく、雰囲気的に説得力を削ぐ狙いです。
面白さを数値化したり、「爆発がある・ない」「オチが強い・弱い」「このネタは強い・弱い」だとか、コントを強さで計るようなことはしていないつもりです。していないというか、できません。自分の能力不足もありますが、そもそも本来コントに点数をつけることはできないものだと思っています。(業界を盛り上げるために?)賞レースがあるからそれに応じてコントの点数をつけるのであって、コントの面白さが数値化できるから賞レースがあるのではない、と考えています。
演劇や小説、映画などの芸術作品は候補作(ノミネート)があって、そこから受賞作品をひとつ選ぶ(点数制ではない)のに、お笑いはなぜか(やっぱり業界を盛り上げるために?)スポーツみたく点数をつけて順位をつけます。そもそもそれが不自然である、という直感は、これまでもこれからも変わらず持ち続けると思います。
(あと、KOCの事前にあって、順位予想など競馬や競艇の予想みたいな話も何度か見かけましたが、そういった議論には全く関心が持てませんでした。コントそのものと関係ないからです。)
また、「ここをこうしたほうがよかった」みたいな改善点?ついては考えていません。
これも能力不足もありますが、演者ではないただの受け取り手としては、作品について考えて書くときの態度として、「現にそこに何が描かれていて、それがどうなっているか」のみ考えるほうが有意義だし楽しいと思うからです。仮に演者経験もない自分が「ここをこうしたほうがよかった」と自分が考えたところで何になるのか。全く思いつきません。
(逆に「どうしたらよくなるか」について考え、提案するのが有意義な人間は、作家や演者、そして審査員たちです。あと占い師とか?)
よってネタのよくない・面白くない部分とか、考える意味がなかったし、そもそも無かったので、それも書いていません。
また何か加筆修正すると思います。誤記等あったらすみません。
来年のKOC、どんなコントが見られるのか、もう既に楽しみです。
あとM-1も。